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第二章 解体

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-11 10:45:07

 翌朝、透子が意識を取り戻したとき、そこは見知らぬ天井だった。

 豪奢だが冷ややかな天蓋付きのベッド。重厚なカーテンの隙間から、鉛色の光が細い針のように差し込んでいる。

 記憶が、泥の中から気泡が浮かぶように蘇る。雨、古城、契約書、そしてインクの匂い。

 彼女は上体を起こし、周囲を見渡した。扉には外から鍵がかけられ、窓には美しい装飾が施された鉄格子が嵌まっている。ここは客室ではなく、優雅な牢獄だった。

 サイドテーブルに、一枚のメモと、奇妙な布の塊が置かれていることに気づいた。

『地下のアトリエへ来たまえ。ただし、身につけるのはこれだけだ』

 流麗で、刃物で刻んだような筆跡。アランのものだ。

 透子は布を広げた。

 そこにあったのは、極薄の白絹で仕立てられたシュミーズが一枚と、使い込まれた重い革のエプロンだけだった。

 ブラジャーも、ショーツもない。

 透子は唇を噛んだ。これは試されているのだ。あるいは、職人としての尊厳を剥ぎ取り、ただの肉塊として彼に従う準備ができているかを問われている。

 拒否することはできた。ドアを叩き、服を要求し、人権を叫ぶこともできたはずだ。

 だが、透子は震える手で、自分のパジャマ代わりのシャツを脱ぎ捨てた。

 鏡の中の裸体。白く、起伏の乏しい身体。そこに、透けるようなシルクの布を頭から被る。

 布地は驚くほど薄く、まるで水膜を纏ったかのように肌に張り付いた。乳首の突起や、アンダーヘアの微かな陰影さえも、隠すというよりは、その存在を強調しているように見える。

 その上に、革のエプロンをつけた。

 ずしりとした重量感。革の裏側のザラザラとした起毛が、敏感になった素肌に直接触れる。

 獣の皮と、虫の吐き出した糸。

 二つの異質な有機物に挟まれ、透子の皮膚は異様な熱を持ち始めていた。動くたびに、革が擦れる粗野な感触と、シルクが滑る滑らかな感触が交互に襲いかかる。それはまるで、乱暴な愛撫と優しいキスを同時に与えられているような錯覚を抱かせた。

 冷たい石の廊下を、裸足で歩く。

 足の裏から伝わる冷気が、背骨を駆け上がり、脳髄を痺れさせる。

 解錠された扉を抜け、地下へと続く螺旋階段を降りる。一段降りるごとに、日常の倫理観が遠のき、地下の闇が口を開けて待つ非日常へと飲み込まれていく。

 地下アトリエの扉を開けると、そこは手術室のような静謐さと、図書館の静寂が混じり合う空間だった。

 一定に保たれた湿度、無影灯の白い光、整然と並べられたプレス機や断裁機。

 その中央に、アラン・ド・ヴァルモンが立っていた。

 彼はチャコールグレーのスリーピースを完璧に着こなし、その隙のなさは一枚の刃物のようだった。

「遅い」

 彼は腕時計を見ずに言った。その声には温度がない。

 アランはゆっくりと透子の方を向いた。

 その灰色の瞳が、透子の頭の先から、裸足の爪先までを舐めるように這い下りる。

 視線には質量があった。

 革のエプロンの隙間から覗く、白い太腿。動くたびに揺れるシルク越しの胸。

 彼はそれらを性的な対象として見るのではなく、これから加工すべき「素材」の品質を確認するように見つめた。

「着替えに、手間取りましたので」

 透子は羞恥で頬を染めながらも、視線を逸らさずに答えた。ここで目を伏せれば、職人としての最後の砦まで崩れてしまう気がしたからだ。

「良い心がけだ。余計な装飾を排し、機能美に徹している」

 アランは薄く笑い、作業台を顎でしゃくった。

「始めよう。第一工程は解体だ。この本の背骨を折り、古い糸を切り、ページを一枚ずつバラバラにする」

 作業台の上には、あの『マルキ・ド・サドの祈祷書』が置かれていた。

 透子は作業台の前に立った。

 冷房の風が、エプロンで覆われていない背中や脇腹を撫でる。裸足で立つ床の硬さが、逃げ場のない現実を突きつける。

 彼女はメスとピンセットを手に取った。

 金属の冷たさが、火照った指先に心地よい。

 職人のスイッチが入る。目の前の本は、もはや本ではない。治療を待つ患部だ。

 背表紙の革にメスを入れる。

 数百年を経て硬化した膠が、バリ、バリと乾いた音を立てて剥がれていく。それは、老いた皮膚を引き剥がす音にも似ていた。

 粉塵が舞う。カビと埃、そして酸化した紙の酸っぱい匂い。

「本も人間も同じだ」

 不意に、背後からアランの声が聞こえた。

 距離が近い。吐息がうなじにかかるほどの距離。

「装丁という名の鎧を脱がされ、綴じ糸という名の規律を切られれば、ただの脆弱な紙の束に戻る。……今の君のように」

 耳元で囁かれ、透子の手が止まった。

 アランの手が、後ろから透子の腰に回された。

 革のエプロンの上からではない。エプロンの脇、無防備に開いた隙間から、手が滑り込んできたのだ。

 氷のように冷たい指先が、薄いシルク越しに、温かい腰肉を直接掴む。

「っ……! 仕事の、邪魔です」

「契約を忘れたか? 私の教育に従うと」

 彼のもう片方の手が伸び、透子の右腕――メスを持つ手首――を、万力のように強く固定した。

「怯えるな。君の手は、破壊するためにあるのではない。再生するためにある。だが、再生のためには、一度徹底的に壊されなければならない」

 アランの身体が透子の背中に密着する。

 スーツの生地越しに伝わる彼の筋肉の硬度と、意外なほどの体温。彼の身体の中心にある硬いものが、透子の臀部に押し当てられているのがわかった。

 背徳感が、脳の血管を沸騰させる。

 ここは神聖なアトリエだ。目の前には歴史的な稀覯本がある。それなのに、自分は下着もつけずに男に抱かれ、その男根の熱を感じている。

「切るんだ、透子。その糸を。過去のしがらみを。君を縛り付けている常識という名の糸を」

 彼の言葉は、命令でありながら、催眠的な誘導でもあった。

 透子は操られるようにメスを動かした。

 綴じ糸が見える。麻糸は茶色く変色し、紙に食い込んでいる。

 刃先を差し込む。

 プツン。

 糸が切れる微かな感触。

 その瞬間、アランの指先が、シルク越しに透子の乳首を鋭く抓った。

「あぁっ!」

 透子の口から、意図しない悲鳴が漏れる。

 痛みと、突き抜けるような快感。

 糸が切れる音と、身体への刺激が完全に同期した。

「そうだ。その感覚を脳に刻め。破壊は快楽だ。秩序からの解放だ」

 アランの手は止まらない。

 左手は透子の手首を操り、次々と糸を切断させていく。右手は透子の胸を蹂躙し、形を変えるほどに強く揉みしだく。

 プツン、プツン、プツン。

 糸が切れるたびに、アランの愛撫は激しさを増し、透子の膝は崩れそうになる。

 しかし、彼は透子を倒れさせない。背後からしっかりと抱きすくめ、作業を強制続行させる。

 この男は、わざとリンクさせているのだ。

 本の構造を解体する行為と、透子の理性を崩壊させる行為を。

 パブロフの犬のように、何かが壊れる音を聞くたびに、子宮が疼くように神経回路を書き換えている。

「ん、あっ、もう……手が、震えて……」

「駄目だね。集中力が足りない」

 アランの手が下へと滑る。

 革のエプロンの下、布一枚で隠された臀部を、彼の手のひらが容赦なく叩いた。

 パンッ!

 乾いた破裂音が地下室に響く。

「きゃっ!」

 鋭い痛み。皮膚が赤く腫れ上がり、熱を持つ。

 叩かれた衝撃で、下腹部に溜まっていた熱が弾けた。秘所から溢れ出た愛液が、太腿を伝い落ちるのがわかる。

「君はこの本と同じだ。何層にも重なったプライド、羞恥心、世間体……それらが古い糊のように癒着し、君の本質を腐らせている」

 アランは再び透子に密着し、今度は耳たぶを甘噛みした。牙が皮膚を食む感触。

「私が剥がしてやる。君の魂が呼吸できるように」

 メスの刃先が、背固めの糊の層に滑り込む。

 バリバリと音を立てて、折丁が分離していく。

 本が形を失うにつれ、透子の自我の輪郭も溶け出していく。

 私は誰? 私は何?

 私は高名な修復師ではない。ただの雌だ。この男に支配され、痛みを与えられ、それを悦びとして飲み込むだけの、肉の器だ。

 その自己否定は、恐ろしいほど甘美だった。

 数ページを剥がし終えた頃、透子の呼吸は乱れ、全身は汗で濡れていた。薄いシルクは完全に透き通り、肌に張り付いて第二の皮膚となっていた。

 本は完全に背から切り離され、ただの紙片の山となっていた。

 秩序の崩壊。カオスの出現。

 その光景は、どこか無惨で、しかし冒涜的なほどに美しかった。

 アランは不意に拘束を解いた。

 支えを失った透子は、作業台に手をついて荒い息を吐く。肩が激しく上下し、乱れた髪が汗で頬に張り付いている。

「……悪くない」

 アランは懐からハンカチを取り出し、指についた古い紙の粉と、そして透子の胸から滲み出た汗を丁寧に拭き取った。

 その仕草は、手術を終えた冷徹な外科医のようでもあり、肉を捌き終えた屠殺人のようでもあった。

 彼は作業台に散らばる「解体されたものたち」を一瞥し、冷ややかに、しかし満足げに告げた。

「第一段階は終了だ。本も君も、十分に解体された。……埃とカビ、そして劣情で汚れている」

 彼は透子の顎を指で持ち上げ、潤んだ瞳を覗き込んだ。

「洗浄が必要だな。……それも、····

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